演劇について思うこと

演劇が陥った「自己陶酔」

私は、演劇サークルが嫌いだ。演劇サークルに携わっている人間と直に関わったことがあるのだが、演劇サークルに好意を持つどころか嫌悪感を増幅させる結果となった。ではなぜ「嫌い」であることを発信せざるを得なくなったのか、以下を読んで理解し批判してもらいたい。

  • 演劇とは自己満足の世界である

現在進行形で演劇サークルをやっている知り合いと間近で接していて印象に残っている言葉がある。それは「演劇をやっている人たちは話が上手いし面白い」だ。

単刀直入に言う、そんなことは全然ない。ごく普通の話に対して適当に盛り上がっているに過ぎない。

また、彼に加えて、演劇をやっている何人かと接してみた。

だが、彼ら/彼女らの話している内容はどの大学生でもすることばかりで、ウィットのかけらもなかった。上手いのは内輪でしか分からないネタで自分たちだけで盛り上がることだ。

ではなぜ彼は演劇に関わる人間を「上手いし面白い」と評するに至ったのか。

それは単純に外の世界が見えていないだけの、つまらない存在であることを隠したかったからだろう。確かに演技をすることは何にも代え難い愉悦で、自己表現の一つのあり方だ。

しかしそこで身につけた技術は、みすぼらしい衣装をきらびやかに見せるためのハッタリをかます技術でしかない。

つまり彼ら/彼女らは周りの人間に虚勢をかまし、自分らを楽しい存在として演技していたに過ぎない。私が抱いた嫌悪感はこの「虚勢」に由来する。無い中身をあるように見せられても、それが透けて見えてしまっては意味も無い。

  • 脚本がオカシイ

演劇の脚本は台詞しか書かれていない。

まずこの時点で目を疑った。演劇は脚本を軽視しているのではないのだろうか。

そもそも脚本は物語を語る上で根幹をなすにも拘らず、それを台詞だけで済まし、後は演出でどうこうしようというつもりなのか。演劇に携わっている彼曰く「後はキャスト(演技者)が台詞を見て作っていく」のである。

何を言っているのか正直サッパリ分からなかった。

1つの劇に対して書かれた脚本は、決してキャストの為に書かれたものではなく、あくまで劇に対して書かれたものである

。それでも彼は「1つの劇に真剣に取り組んでいる」と言うが、果たしてこの世にあふれている演劇のほとんどが駄作であることを知っているのだろうか。

この暴力的なまでの自己本位性は演劇を堕落させた張本人である。

 

 

 

 

これ以上語ると私の心が保たないのでいったんここで筆を止めます。

理解してほしいのは、これは演劇の芸術的側面を否定している訳ではないということです。

私が嫌いなのはあくまで演劇の文学性を愚弄する演劇サークルの愚民どもです。

これ以上演劇という芸術をマスターベーションだけに利用しないでほしい、そう願っています。